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::Artist Statement::

 イメージは差分によって存在している。同じ風景を見、同じ行動をし、同じ経験を積んだだけでは人と人の間でイメージの共有は起こりえない。それについてコミュニケーションを取りイメージのすり合わせを行って初めて共有が生まれる。共有とは結果であると同時に行動そのものでもある。

 ここで語るイメージという言葉には、記憶と図像という二つの意味が含まれる。記憶はあなたの頭の中に、私たちの頭の中に、確かに存在しているだろう。悪い思い出も、光り輝く思い出も。図像も確かに存在している。目の見える人であれば見るという行為で確かにそこに、存在していることを確認できるはずだ。

 しかし記憶も図像も、たとえ他人と同じ対象を自分の中に取り込んでいても、その人の持つイメージとは完全に一致しない。そこには確かに、差分が存在するのだ。

 差分は共有によって埋められる前も、後も、自分の持つイメージと他人の持つイメージとの間に確実に存在し続ける。なぜならどのような共有行動を起こそうとも、完全な共有というのは起こりえないし、起こりえたとしても証明のしようがないからだ。だから差分はそこに存在しつづける。差分は悪い物ではない。寧ろ必要なものだ。差分があるからこそ、自分のイメージがそこに存在しえる。誰もが普遍的に感じることは、イメージとして存在できない。なぜならそこに差分がないからだ。

 私は私の作品がイメージとして強固に存在しえるよう、差分を多く含むイメージを提示する。どこかでみたことのある風景、しかし肉眼では見ることのできないその風景の新しい美しさ。それは別段特別な画ではないだろう。それ故に、とても曖昧な美しさを孕み、そこに存在する。

差分を多く含むイメージを取り込んだ彼らが共有行動を起こすか起こさないかは、観客に委ねたい。そこは特筆すべき問題ではない。なぜなら、私の提示するイメージを取り込んだ時点で、私のイメージは更に強固に、この世界に存在することになるからだ。